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つらつらと  2004/10/11 Mon.
そういえば、先日、鏡リュウジさんが『サターン 土星の心理占星学』を出版された。

早く読んでみようと思いつつ、先日行った本屋には並んでいなかった。そこはけっこうセンスのいいところで、占い関係も充実しているので、売り切れだったんだろう。
なかなか本屋にいく時間がとれず、トークショウがあることを知って(笑)そこで買おうと思っている次第。とにかく、そのトークショウに行かなきゃいけないんだけれど、昨晩、その日に重要な打ち合わせを入れていいかという打診が。ため息出ちゃうなぁ。

さて、最近、古典の世界にドップリで、心理占星術にも食指が動く。

今の時代、占星術関係でこういった本が出るのは久々じゃないだろうか? もちろん、松村氏の本が出ていることは知っているし(あ、あの本でいけださん達が書いていたコラムを読んで、買おうと思ったきり買ってないや…。出掛けるときで「重くて持って歩くのがいやだ」と思って後回しにしたままだっけ)何もないとはいわないものの、ほとんど出ていないと言っても過言ではないと思う。


競馬と占星術はすごく似ていると思う。(笑)
競馬だって、調教調べてコースや距離の適性調べてと、理論派・データ派もいれば、名前だとかゴロだとか出目という人たちもいる。競馬にだって正解はない。どんなデータを調べて理論を組み立てても、ハズれる時はハズれる。誕生日馬券とか「名前がカワイイ」から買ったところで、当たるときは当たる。名前とかゴロでも「当たる法則」が見つかればそれでいいわけで…

競馬には血統という重要なファクターがある。
競馬発祥の頃は今より圧倒的に長距離を走る、それも複数回走るレースだった。馬も8歳とか10歳とか高齢でも走った。(馬の年齢は、概算で約4倍くらいすると人間の年齢に換算できるという。)
しかし、今のような3歳春のダービーを頂点としたレース体系、そして8000mとか10000mとかを走るレースから、圧倒的に距離が短くなってくることで、より「馬主がいい馬を持っていると自慢するための競馬」から状況が変わってきた。2歳でデビューし3〜5歳でピークを迎え、引退して子供を作る。このサイクルは「人間が血統を扱う」のにはちょうどいい。自分が馬を作っている間に、3代、4代をコントロールできる。

サラブレットは3大始祖と言われ、現在の全てのサラブレットを辿っていくと、父親はかならず3頭にたどり着く、というものだ。

占星術と違うのはこの点で、発祥が明確になっている。しかし、たった3頭からサラブレットを作ったわけではなくて、100頭を越える馬がいたのに、結局淘汰されて3頭にしか「たどり着かなくなった」という話のようだ。

イギリスは発祥の地でありながら、後発のアメリカやオーストラリアから強い馬が出ると、それをサラブレットと認めないと言い出した。血統証によって血統が証明されない馬はサラブレットとは言わない、と。当時、アメリカやオーストラリアで発展されたサラブレットは、新しい大陸に渡る際に血統証がいい加減に扱われてしまった。その馬たちが本場に乗り込むことが阻まれた。

つまり、イギリスで血統を管理された「昔からの」サラブレットのみを、「正統なもの」としてそれ以外の排除を始めたわけだ。

しかし、このあたりで血統の飽和がある。
一定の走る血統の馬がその子供を広げ枝葉を伸ばしていくと、その血統の馬が飽和してしまって、新しい血統を入れるしかない。一気に爆発力をなくして衰退する。これは血統としての限界もあるんだろうし、極度の近親交配を避けなければならないという事情もある。
そんな中で、そのイギリスから出ていって外の地で花開いた力強い血脈を、再び取り入れざるを得なくなる。

でも、考えてみれば、どの血統も全体を見ていけば全てが3本の幹から伸びた枝葉であるし、まったく他の幹と交わっていない枝葉もないわけではあるけれど。その3本のうちでも、1本が90%以上を占める大樹だったりする。この大樹がそれぞれの「系統」を作る。競馬はある系統が大爆発して席巻していく。世界でも日本でも、少し前は、ノーザンダンサー系と言われる、ノーザンダンサー自身、その子、その孫が種牡馬として大ヒットした。世界がそれに席巻された。日本もそうだった。そうすると種牡馬にはノーザンダンサー系の子供達がどんどん増え、母親となる繁殖牝馬にもノーザンダンサーの系統を父に持つ馬が席巻する。そうなってくると、もはや、ノーザンダンサー系の種牡馬では「相手がいない」ことにもなってしまう。日本ではそこでタートゥ系とかヘイルトゥリーズン系なんて言われる種牡馬たちがモテだした。これらの馬は、大本を辿ればノーザンダンサー達と同じ父親に行き着くけれど、その分岐はかなり昔になるため、極度な近親交配にはならない。そしてなにより、ノーザンダンサー系の牝馬にとって優秀な馬を出す(能力の高い馬を作る)相性がとてもよいと言われる。そうして、今度は、どういう馬たちが増えていくわけだ。日本での代表例は競馬ファンでなくても知っているであろうサンデーサイレンス。


枝葉が伸びきってしまったように思われ、じゃぁ、真実の、一番太いはずの幹を探し求める行為は何も驚きはしない。枝葉を否定してみたり、接ぎ木を否定してみたり、それもアリだろう。だけれど、それは結局の所、「勢いがなくなれば別の血統を注入しなければならない」という競馬の世界と同じような縮図が占星術の世界でも展開されているように思えてくる。

確かに、淘汰されるものは淘汰される。13星座はどこへいくのか、セドナはどこへいくのか。残る物は残る、消えるものは消える。消えたようでも小さな枝がいつのまにか再度大きな花を咲かせることもある。


自分が古典占星術を知った時は、そのシャープなところとシステマチックに思える部分に、まさに魅了された。当時、それを教えてくれた aman さんがまるで神様のように思えたものだ。(どっちかっつーとイメージは閻魔大王かも知れない。)
だけど、そのうち、色々聞いてみると、決して単純ではないし、それぞれの「見方」が色々とあるし、まったく枝のない一本杉じゃなくてこれも枝葉を伸ばす大きな木であることがわかる。もちろん、だからといって魅力がなくなることはない。


占星術のトレンドを追いかける人もいれば、トレンドより信念を追いかける人もいる。どっちも正解だと思う。今の自分はどちらにもなれないから、新しい
やはり、そろそろ、心理占星術なんて世界も「決して新しくはないけれど、まるで血統を活性化するためのサンデーサイレンスが輸入」されたように、新しい占星術が入ってくる。だけど、ノーザンダンサー系が死滅することはないし、もう少し時間が経てば、サンデーサイレンスの系統が飽和することが目に見えているだけに、ノーザンダンサー系と言われた馬の子供達がまた新たな名前で系統を作って世界を席巻する日がくるだろう。(こないかもしれないけれど…、きっとくると思う…。)

そんなことを考えていたら、心理占星術のアプローチというのをもっともっと学んでみたい気持ちになってくる。

これは違う意見もあるのかもしれないけれど、自分が聞いている限りでは、「なぜ、占星術が当たるのか」という話をし出すと、多くの人は困る。「そういうものだ」という答えが多いんじゃないだろうか。古典の人たちにしても、「それはなノかある」だけど、「それが明確に分からない」というところだろう。かといって、引力だ、光線だ、シリウス星人(地球外生命体)の知恵だ、ムーやアトランティスの残した英知だと言われても、どうにもピンと来ない。
もちろん、占いが当たってそれが楽しいものであるから、根拠がブラックボックスであってもかまわないとは思う。
だけど、それを「みんなの心の中にあるもの」からわき出てきたもの、と言われると、妙に納得できてしまう。神話がどうとか、集合的無意識と言われるとちょっと話が難しくなるけれど、根拠はみんなの心の中にある、それが映し出されているんだよと言われると。本当にそうなのかといわれても、そりゃ、わからない。少なくとも、心というものが十分な説明を出来ないのだから。でも、心はある。

(わかってない人間が書いているから、ちゃらんぽらんな解釈かも知れない。)



そして、ふと思うのは、日本流西洋占星術の発展、という点。
競馬の世界で言うと、日本の気候風土、競馬場の形態や馬場状態というのは特殊だ。いや、アメリカだってヨーロッパから見れば特殊だし、香港やオーストラリアだって、相互に特殊だ。ヨーロッパは芝コースで芝は深くて自然に近いコース、円形とは限らない。アメリカはダート中心で(日本のダートより)固くてコースは円形でそれも小さい。香港に至っては「生産」をしていないから馬は海外からの輸入に頼っている。日本は整備されたコースで芝は軽くて、とにかく賞金が高い。(笑)
つまり、日本には日本に合う血統だったり、「日本向きの馬」というのがいる。
それでもいまだに種牡馬の多くは海外で大活躍した馬で、日本独自の血統というのはなかなか伸びない。でも、それなりにはがんばっている。いずれは日本で発展していく血統というのもできて、日本から海外に輸出される種牡馬も出てくるのだろう。もちろん、そういった努力がされている。輸出と言っても、本来は日本にいなかった生き物だから、「帰っていく」だけなのかもしれないけれど。

さて、占星術はどうなんだろう? 日本で、日本人という民族に、果たして「西洋」占星術がそのまま適用されてそれでいいんだろうか?


今あるものが「それは1000年前にはなかったから」ホンモノではない、なんて言っていることが正しいんだろうか? 「これはあと1000年は残る」と断言できる人は誰もいないだろうけれど、その1000年後にも残っていれば、いつのまにかホンモノになっちゃうんだろうか? いつまでがパチモンで、いつからがホンモノなのか…
残ればホンモノ。それだけのことかもしれない。わかんないけど…


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Akiary v.0.42