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本、2冊購入  2005/2/4 Fri.
たまには目新しい話題を。(笑)

今日、本屋に行った。つらつらと眺めて、まぁ、今さら、占星術関連で「欲しい」と思う新刊なんぞないだろう(古い本で並んでいるものは、欲しいと思うものなら既に買っているだろう)と思いつつ、宗教の棚に行った。

発見!

星占いの文化交流史シリーズ言葉と社会 (1) 【amazonにリンク】

画像キャプチャするのが面倒なので、とりあえず、amazon へのリンクで。
この著者の訳した「古代の精密科学」という本は、いまだにやたらと引用されるもので、あぁ、なるほど、あの人か…という感じ。

最初の数ページを読んでみたところ、比較的読みやすい本ではないかと思う。読み終わったら感想を書く(かもしれない)として、今の時点では、一応お勧めの部類だと思う。

なんと、区界という名前で、タームについて書かれているではないか!(それが何だ、という解説ではないので、「古典占星術を学ぶための教科書にしよう」なんて期待しないで欲しい。)

そしてもう1冊。

古代占星術―その歴史と社会的機能 【amazonにリンク】

という本。これも十分におもしろそうだと思って買った。まだ読んでいない。
これもパラパラとめくった限り、おもしろい。


読んでいないうちから書くのもなんだけれど、両方とも、占星術の歴史を扱っているように思う。「占い方の変化」というより、文化の中に組み込まれた占星術の移り変わりという感じで、あたりまえだけれど、テクニックの解説でないことは確かだと思う。

占星術を捉える場合、占いとして捉えるケースと、文化として捉えるケースがあると思う。簡単にいってしまえば、前者は宗教などに近くて、いわば人の心の中にあって、多くの場合、科学という土俵には乗らない。乗らないと断言して反論を招くのもイヤだけれど、所詮、再現性とか、何が起こったらなにがある、そこに科学で言うところの因果関係を見いだせないんだから、科学の土俵には乗らないと思う。それが「今のところ」なのか「永遠に」なのかは、わからない。ヘンに、科学でなんとかしようと思わなくてもいいんじゃないだろうか。そして後者は、例えば、同じ占星術の考え方が離れた地域で同じくされていれば、その2つの地域はなんらかの交流があったということになるので、そういったことを確かめるひとつの資料として占星術を捉えている人たちだと思う。

占星術を語るにしても、書店もちゃんと理解して、占いの棚に並べるのか、文化史の棚に並べるのか、あえて両方を一緒に扱うのか、考えてくれると嬉しいけれど、まぁ、そこまでは望めないだろう。
そして、ネット社会でそれなりに問題視されていることとして、学問の分野の人たちが、その研究をネットで発表しているとは限らないことと、十分に理解していない人がネットにじゃんじゃん書きまくっているということがある。おじいさん先生がパソコンで自分のWEBサイトを更新するという図式はあまりないだろう。そもそも、ネットに価値を見いだしてないだろうから。ネットに価値を見いださない、それは、とりもなおさず、間違った情報もそのまま流通され、google あたりで検索すれば簡単にヒットしてしまうことだ。そのヒットには(あたりまえだけれど)更新の近いものが上にくるとか、言葉が一致するものが上にくることはあっても、「内容の精度・品質でソートする」という機能はない。
どこかの新聞で紹介されていたのは、「ネットで仕入れたであろう間違えた情報をもとに書かれたレポート」が提出されることが多いという大学教授の嘆きだった。さもありなん。友人の大学講師も、「ネットからコピペしたとしか思えないレポートが多い。そのままというのはさすがに少ないけれど、寄せ集めは多い。大体、句読点くらい統一してから出さなければバレると考えないんだろうか?」と嘆いていた。つまり、「。」なのか「.」なのか、「、」なのか「,」なのか、どちらかに統一すらされていない、ということだ。(ちなみに、Astrologer.JP の中でも、尊敬すべきKD氏は、句読点をピリオドとカンマを使っている。サイトとしての統一性はないかもしれないが、それはその人のスタイルなので、そういう意味での統一性の話ではない。ここで書いているのはひとつのレポート中に「。」と「.」が混在するようなものが出てくる、という話だ。)

自分のやっていることも、その「恥ずかしいこと」のひとつであることを認めた上で書くのなら、ある程度のポジションがなければ出版できない世界と違って、WEBは、簡単に記載して発信ができる。
たとえば、タロットカードの起源の話がわかりやすい。自分も、ついこの前まで「起源は不明」なんて思っていたし、エジプトだのメソポタミアだのという話に耳を傾けていた。日本では、いまだにそう書いている本やサイトが存在する。しかし、それなりに納得できる説としては、(日本語で読むなら)鏡リュウジ氏や伊泉龍一氏が著書がいいだろう。
それだって「じゃぁ、アンタ、見たんかい!」と言われれば、ドラえもんがいないんだからタイムマシンで過去にさかのぼっているわけでもないし、完全否定する証拠なんてものは出てこない。
「いやいや、中世が起源とあなたたちは言うけれど、」と否定する言葉のあとに、「その証拠はあるんかい!」と言うのか、「私はそれ以前だという証拠をもっているんですよ」と言うのでは、話が違う。
いまだに売られている本だとしても、出版当時はそれを知らなかったということも考えられるし、それが恥ずかしいとは言い切れない。とはいえ、今現在で、「本に書いてあったから」とか「どこかのサイトを見たら、メソポタミアのアレキサンドリア図書館が焼け落ちる前に壁画を書き写して持ち出したものって書いてあったから」と言って、それを掲げてしまうのは、ちょっと待ってよ、なわけだ。
(本当に、情けないけれど、自分だって少し前までは同じ立場だった。)

ネットを鵜呑みにしてもいいんか? というハードルが、まずひとつある。

その次は、占いサイドのビリーバーな人が書く「歴史」というものは、けしてアテにならない、ということ。随分昔になるけれど、びっくらこいたことがある。占星術で、それなりの経験から感じるテクニックをみんなが話し合っている時に、「じゃぁ、検証してみる」と言い出した人がいる。そして、たったひとり、自分の過去を思いめぐらせて「あぁ、それ、当たっているから、採用」みたいに言った。それが冗談とか、自分が信じるという話ではなくて、「自分に当てはまったから、証明された」という言い方なわけだ。
ちょっと待ってよ、検証と言うからには、もっといくつかの例を引っ張り出してみないのか? それも5つや10では足りないと思うんだけど。アナタに当てはまったとして、それが、今、話題になっていたことの影響なのか、それとはまったく関係のない別のことの影響なのかってのは、考えないのか?
わかりやすく言うなら、「東海道新幹線は雪の日には遅れる」という法則が話題になったとする。普通の人は、雪だと鉄道が麻痺するとか、特に東海道新幹線は関ヶ原付近で激しい雪に遭いやすく、その部分が弱いというのを知っている。だから、「今日は雪が降っていて、新幹線が遅れた」とだけ聞けば、「あぁ、関ヶ原ね…」と思うだろう。だけど、それは原因を確かめてみないことにはわからない。今日の新幹線が遅れていた理由は、パラパラ程度の雪ではなくて、人身事故かもしれない。
たったひとり分、自分の過去を思いめぐらせただけで「検証終了」ってのはどうよ、という話だ。

占いに懐疑的な人、占いそのものには関心のない人の著書の全てに価値があるとは言わない。けれど、そういった人がもたらす情報の中にも、有意義なものはある。
例えば、占星術という文字をタイトルに持つ、中山茂氏の本は、Astrologerの間でも高い評価がされていると思う。しかし、占星術―その科学史上の位置朝日文庫 【amazonにリンク】の前書きでは、以下のように書かれている

一八世紀の知識人たちにとっては占星術は父祖の怨霊のようなもので、それに対して、目をつぶり、耳をおおいたかったであろうが、われわれはこの死して化石となった「科学」を丁重に葬ってやり、その墓碑銘を刻み込もうとするのだ。

そこまで言っている。(もっとも、占星術はタフだから、半殺しにしかできないよ、とも思うけれど。)
科学者の言う占星術とは、それくらいのものだということで、それはそれとして彼らの持ってきてくれる情報は有効だったりする。

そのあたりを納得してもらえるなら、お勧めしたい本だと思う。まだ読んでないけど。

こういう本は、あとで、と思っているとなくなってしまうから。



ちょっと、付け加えたい。
占星術とかタロットカードを、そういったライターとか講師を生業とする人たちであっても、全てがビリーバーではない、ということ。「占い師なんて、ふたり集まったら、それぞれ勝手なことを言いだして、あれはそうだ、これはちがうって喧嘩になる。お互い、それぞれの主義主張があって、相容れないし、決着は付かない」なんてことを口にして(叩かれて)、ちょっと反抗的な目で占いを見ていたこともある。
でも、これは、他の人も、そう思っていたりする。案外、みんな冷静なんだ。

多くの人は、小学生の頃から、ちゃんと再現できて、法則があってという科学を身につけるように教育されてきた。大学受験や高校での授業はおろか、小学校、中学校の頃から、「占星術やタロットカードなんて信じるほうがおかしいよ、せいぜい、エンターテイメントで多目に見てやる程度のものよ」という教育をされてきただろう。
それなのに、占いに興味を持って、占いの世界にいる(占いを趣味としている)んだから、奇人変人の集合体なのかもしれない。(もちろん、自分を含めて。)

でも、ちょっと待て、と。占いを頭から全て信じているわけじゃない。占いをやっている時とか、占いのことを考えている時は、真剣でなければ失礼だし、当たると思っていなければ考えもしないわけだし。「騙してやろう」なんて思っちゃいない。でも、それだけじゃなくて、占いを離れたら「やっぱり、へんだよな」と思う気持ちも必要だろう。
(まったく別のスタンスの人もいると思う。やる以上、頭からすべて、そういうものだと信じるべきだ、そうでなければおかしいと言う人も。それも「考え方」だと思う。)

他の人がどう思うと、まぁ、それはいい。思想信条の自由は、この国では憲法で保証されている。イヤミでもなんでもなく、「アナタがどう考えても自由」だし、「オレがどう考えても自由だよ」ということ。平行線がわかっている議論は要らない。


恥ずかしい…  2005/2/4 Fri.
ある尊敬する方より、ひとつ前に書いた『古代占星術』の原著は有名な本ですよ、との情報を頂いた。
そんなことも知らない自分は恥ずかしい。(笑)

これで読むことが楽しみになってきた。


おぃおぃ  2005/2/6 Sun.
中国版のこっくりさんで、中国の中学生が自殺…というような記事が東京新聞(2005/2/5夕刊)に載っていた。

それ自体、オイオイではあるが、中国ではそういうものが大流行していて(このあたりで「占い」というカテゴリにこっくりさんも含まれて書かれる)風水などを信じてのめり込む中学生がたくさんいると書いてあった。そして、中国当局が、「迷信を信じ込ませる雑誌やWEBサイトを取り締まっている」とも。

日本語で伝えるそれが、どこまで真実かはわからないけれど、まさに、オィオィだ。
これを見ると、中国人は、よっぽど頭が悪いのかと思えてしまう。(そんなことないだろ、という意味で。)



一応、「占い=迷信」という図式は、これまた、どうかと思う。常々、自分も「占いを信じる」コトに対しては、色々書いてきた。それは占いの否定ではないし、占いが「迷信だから」信じるに値しないと言っているわけではない。占いを好ましくないものとするのが「迷信だから」だったら、世の中は迷信にあふれている。
そうじゃなくて、占いを迷信だと仮定しても、「迷信=占い」が悪いのではなくて、「迷信」を信じてしまう愚かな人たち、が問題なのではないか、と。

そもそも、そこまで占いを信じるか? そう思う人のほうが多いはず。

でも、例えば、Astrologer.JP のホロスコープ作成にしても(何度もイヤミで書いている通り)注意書きをロクに読まない人がいる。確信犯もいる。多少、負荷がかかったくらいでどうにかなるものではないけれど、「みんながやったら、やばいだろ」ということ。電車の中での携帯使用で、優先席付近でスイッチを切れと言うけれど、かつての調査結果では、携帯とPHSとペースメーカーの総当たり試験をして、影響を出すは15cm程度より近づける必要があるという結果が出ている。(はず) そして、影響が出ると言っても、破壊されるわけではない。1回分の信号が出なくなることがある、という話で、恒久的に動作しないとか壊れるという話ではない。命を守るものを作る医療機器メーカーだって、そんな壊れやすいペースメーカーを製造しているわけではないだろうに。あの放送を聞くたびに、ペースメーカーを製造している会社や設計した人は悲しい思いをして居るんじゃないかと考えてしまう。もちろん、「だから、気にしないで使っていいよ」というわけではない。要は、歯止めとしての自主規制。まさに「自分で考えるチカラ」だと思う。
何かの申し込みを受け付けると、たいてい、2割程度の人が「注意として、普通にわかるように書いてある」ことを満たしていない状態で申し込んでくる。そんな人たちが星を見て占っても、「見落とすことばっかりなんじゃないの?」と思う。

かといって、そんな人の「資質」に関わる部分まで、お上がなんとかすることではない。何とかすることではないんだから、お上に規制される(してもらう)というのも、どうかと思う。

ちょっと、日本と中国の話をごっちゃにしてしまったけれど、ちゃんと考えようよ、と。ホントに考えない人ばかりだったら、商売はラクなのにねぇ。そういう人が、中途半端な数で存在するから…


ちょっとだけ情報リーク(笑)  2005/2/7 Mon.
また、Astrologer.JP の数名による講座開催を検討中。
春、暖かくなって、梅雨の前くらいになる…かも。

前回、穂渡桂樹も何か話せ(注意事項の説明くらいはしたさ(笑))という意見を、きわめて少ない数の人からリクエストされたけれど、あまりそれは考えていないと言うか。
自分の知識などでは厳しいというのが第一にあるモノの、それ以上に、事務方と講師とを分けて(現状では完全分離は無理だけれど)それぞれに専念するほうがいいと思うから。

ただ、ちょっと思っていることはあるから、講師というわけじゃなくて、前座がてら…というのは少しだけ考えた。でも、多分、やらない。


講座の準備を少しずつ…  2005/2/12 Sat.
さて、講座の件。夏の少し前を想定して検討段階に。

今回は何人の会場に設定するかが悩みの種。
募集開始しても、あまり集まらない。ある一定の時期がくると一気に応募がある。そんなパターンなのでなかなか数が読めないのが実状。講師も増えて、今度は前回より金額も高くなる予定。

「高い」とか言われても、しらんって。(笑)
他を見たところで、講座の時間からしたらけっして高くない金額なわけだし。その講座に「それだけ払う価値があるか」の判断は受講する人の側だから、高いと思ったら来なければいいということだと思う。毎回そうなんだけれど、主宰サイドなんて全然儲かっていない。慈善事業をやっているつもりはないので、ちゃんとそれなりの収支になるような会にしていかないと、存続が危うくなる。(どんな「いい人」だって、霞を食って生きてるわけじゃない。)

講師の人だって、準備にはたくさんの時間がかかっているし、自分のことを言うのもなんだけれど事務方も(多分、多くの人が想像するよりも遙かに)多くの時間を費やしている。事務方で言うなら、ページ作成や講師の人との調整なら、まだ苦にはならない。困ったチャンの存在が、時間的にも精神的にも大きく負担になる。そんなことくらいちゃんとできんのかと思う人や、書いてあることくらい普通に読めんのかと思う人が、世の中にはかなりの数で存在する。そういう人は、20人に1人であっても、ごっそり時間を持っていく。

確かに、たくさんの講師の人がそれぞれに講義をしてくれる「お祭り」みたいなものをやりたいという気持ちは常々あるけれど、その「夢」だって、講師が自腹切ってやるものではないと思う。自分も「じゃぁ、オレが金出すよ」と言えるほど大金持ちでもないし。お金持ちのパトロンが出てきてくれるなら、話は違う方向にいくのにね。(笑)

それぞれ「思うところ」があってやっていることだから、お金はもらえなくても(労働が完全に無償奉仕になっても)、夢を食べていればとりあえずの我慢はできる。年に1度くらいのことだから。


「聞かしてやるから、来たきゃ来いよ」という意味ではなくて…

こういうの、浸透しないのかなぁ?

まぁ、来る気ならさっさと申し込んでよ、というのは常々思うことかも。申し込みが締め切ってから、受講したいと言い出す人が毎回ちょびっとだけいる。そういう人って、どういう対応を望んでいるんだろう? 「じゃぁ、そこまで言うなら、特別に入れてあげましょう」という反応? そりゃ無理でしょう、席数が決まってんだから。それとも予備にひとつやふたつ、余らせていると思っているのかなぁ? 「じゃぁ、さっき申し込んできた人を断っておきますね」なんて言えるわけもなし。

数が減り出すと、けっこうな勢いで減ってしまうんだよねぇ。その予測は付かないし、「あとひとりになったら教えてください」なんてのも(言われたことはないけれど)困るし。

毎回、何らかの困ったチャンはでるものだけれど、それも減らしていく方向で考えないと、大きくなればなるほど、負担も大きくなってかなわん。「そういうものだから、しかたないだろ、そんなこともわからないのか」と思う人もいるだろう。それはわかっていても、じゃぁ、しかたないからいいですよ、なんて言う気にはならない。


雑感  2005/2/13 Sun.
ちょうど、

星占いの文化交流史シリーズ言葉と社会 (1) 【amazonにリンク】

古代占星術―その歴史と社会的機能 【amazonにリンク】

この2冊を読んでいたところで、おもしろい記事を発見。
大津市の職員互助会が去年末に発行した職員手帳(市民もお金を出せば買えるらしい)に、六曜の記載があるからと人権団体がクレームを入れ、全部が回収焼却処分になるそうだ。

(数年前に六曜記載を廃止したのに、市長が「便利だから記載してはどうか」と言ったから復活させたというのが、あまりにも役所らしい。実際に、役所内部を見ることが多いので、さもありなんと思ってしまう。)


占いが迷信、占いを信じ切って生きているわけじゃない、そんなことは占いをしている自分が言うと「あるまじき発言」なんだろうか? (実際、そう言ってくる人はいる。)いやいや、占いがいい加減とか、どうでもいいと言いながら、占いでお金を手にしているわけではなくて、「盲信する時代ではない」というだけの話なのに。

血液型占い(あれって「占い」なの?)については、日本人の多くを占めるA型に対してはいいイメージの言葉があり、O型も良く受け取れる。B型と言えば、たいていは「変わり者」のように言われるし、AB型と言えば「二重人格」とか「二面性」をネガティブな意味で強調されるように感じる。あたかも、A型とO型に優位性を認めているように受け取られるわけだ。
血液型占いはABO式だけれど、ABOに該当する血液型を持たない人も極めて希に存在するし、ABOは赤血球の型の「ひとつ」であって、赤血球の型にしてもRH式でわかるようにたくさんの種類がある。ましてや、同じ血液に含まれる白血球や血小板などの型については論じていない。
ABO式の血液型が注目されたのは、輸血時の凝固反応に関しての問題であって、性格起源ではない。(性格が起源じゃないから意味ないということではない。) ましてや、現代であれば、人は細胞の中の核に含まれるDNAが、二重螺旋の形で人なら23対となり遺伝情報を持っていることは知っている。アデニン、グアニン、シトシン、チミンという4つの塩基の配列によって情報が記録されていることも、中学か高校で習うだろう。
そこで「伴性遺伝」というものは出てくる。おなじ染色体に乗った情報はセットで遺伝されるという話だ。しかし、血液型を決めるのは、23対の遺伝子のたった1対の、それもたった一カ所の配列の違いであって、たとえ一部の性格が伴性で遺伝するとしても、性格を決めるほどの要素ではないだろう。

確かに、六曜も、占星術も、タロットカードも、「科学的」根拠が不明確だから、血液型ほど「否定しにくい」のも事実だろう。ぶっちゃけ「根拠がないんだから、間違えている」と言い出せば、「根拠はわかっていないだけで、ないという証拠もない」なんて言い出せてしまうから。(そんなこと言い出したら、「アンタ、ヘンなんじゃない?」と言われるのがオチだけど。)その点、血液型だったりすれば、上記のように「それは違うでしょ」と言えたりもする。

当然、占星術というか「星座占い」が、それに近いものになってしまわないように、占いを書く側としても、十二分な配慮は必要だと思う。(蠍座の適職が、水商売だとか墓守だとか言われると、ガックリくるというか、墓守ってどうやって就職するんねん!)
ただ、だからといって、人にはそれぞれ個性があったり、長所や短所はあるわけで、さらには一流スポーツ選手が運動能力で秀でていることも事実なわけで。

そのあたりの折り合いくらい、つけられんのだろうか?


上記の本は、2冊とも(そして、テスターの西洋占星術の歴史【amazonへリンク】も 、占星術の「占い」の本ではなくて、文化の流れを占星術という分野の流れを見ることで「占い」の本ではない。

占いの世界には、どことなく、科学コンプレックスのようなところがあると思う。科学に根拠を求めようとしたり、科学的(?)実験をしてみたり。それが悪いことだとは言わないものの、それならそれで、もう少し科学的手法に沿って欲しいとも。そういったことを書いている本を見たこともある。本のタイトルを出して批判するつもりはない。例えば、大学で論文を書くとすると、結論を用意してそれに対する証拠集めをするという方法や、逆に否定的な証拠を集めてみたり、それぞれの仮説に対しての考察を加えるようなことをする。証拠ったって、「自分はそう思う」とか、根拠レスに「そういうものだ」とやっているわけじゃない。

今、読んでいるそれらの本は、「ここでこんなもんが出てきた」ことと、「そこに書かれていた内容」から、類推されることを列挙していたり、それもひとつ出てきたらおっけーではなくて、それぞれの前後関係や他の地域で出てきた同様のモノとの差異などに着目している。
確かに、学研のムーブックスでオーパーツの謎を読んだときは、それはそれで素晴らしく楽しかった。惑星ニビルもヤハウェの話も楽しかった。それはそれとして、いいじゃないかと思う。

今読んでいる本達は、別に占星術の批判とか、否定をしているわけではない。そもそも、占いとしての占星術なんぞ、相手にしていない、という感じだ。こういう「考え方のプロセス」みたいなものは、勉強になると思う。
占いに対して熱くなってもいいし、俺流占星術を展開してもいいし。だけど、そうでない世界もあることは、知っておいてもいいでしょ、と。



思い出した…。そういえば、随分前に、テスターの『西洋占星術の歴史』について、つまらんと言う人がいた。理由は、「アラン・レオとか、最近の占い師が出てこないから」だそうだ。(笑)


話が飛びまくってしまう。これは日記(?)ということで許して欲しい。

で、その、六曜の話。まぁ、いいじゃん、と。なんでそれが人権の問題にまで発展するのかと思う。(まぁ、それも、「役所の作ったものだから」という事情なんだろうなと推察する。色々な意味を含めて。)仏滅に産まれた人はダメな人だと? それとも特定の宗教に由来するから? それならクリスマスだとかバレンタインだってそうだし、神武天皇即位の日が祝日というのはどうなんだ? この際、神道を標榜して、天皇誕生日を祝日にするなら、それこそ、歴代天皇全員の分を祝日にしてくれればいいのにね。(笑)

もはや、迷信とか、「それはそれ」と割り切れるものなら、そこまでこだわって気にすることはないのではないかと思う。そして、それこそ血液型のように、時に人は「データに基づいた」なんて言いだし、エンターテイメントの中に潜む優生論的なことに「気づく」必要があるんじゃないかと。(んなが気づいて言っている分には、まぁ、いいんじゃないの、とさえ思う。時に「だから、魚座は流されやすいんだよ〜」なんて言って、お互いが笑っていられるなら、それでもいいでしょ、と。「蠍座が融通効かなくて頑固なだけでしょ」と言いかえされればいいだけの話で。(って、蠍座より牡牛座か?)


現状…  2005/2/24 Thu.
講座については、講師3名の予定で準備中。

今回は様子を見て会場を大きくするとかしない予定なので、募集開始したら、早めに申し込みを。

ほうじ茶さんの「C.A.翻訳」に追加予定。今、準備中。

そして、もう少ししたら、さらにひとつお知らせがあるかも。


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Akiary v.0.42